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千早「9月8日、雨の土曜日」

1: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:00:43.84 ID:8HExc5lho

昨日は通り雨が降っていた。

明日もたぶん、雨。

じゃあ、今日はどうなのかしら。

意味もなく雨に打たれるのも、たまには悪くない。

それでも濡れないに越したことはないわよね。


2: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:01:29.10 ID:8HExc5lho

開け放しの窓の外からは雨の匂いがしていた。

これから一雨来るのかも。

あの濡れたコンクリートの匂いが漂ってくる。
その夏の匂いというのが、私はたまらなく好きだった。

九月と言っても、まだまだ蒸し暑い日々が続いている。
この匂いとお別れするのも、まだ先のことになりそう。

ひとまず窓を閉じて、お気に入りのバッグを持ち上げる。

――うん、折り畳み傘も入ってる。

バッグを閉めて、玄関先に置かれたキャップをつかむ。

そして、それをなるべく深めにかぶってドアノブに手をかけた。


3: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:02:22.24 ID:8HExc5lho

蒸し暑い外の世界へと繰り出していく。

ずいぶんと重そうな入道雲を浮かべた空。
これって夏特有よね。

プールにでも浮かびながら、
その空を見上げられたら、きっと最高。

もっとも、そんなことしなかったし、できなかったのだけど。

この季節といえども、水着になるのには、やはり抵抗があった。

それに、一度だけ春香たちに誘われてプールに行った時は、慌ただしくてそれどころではなかったもの。


4: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:02:55.56 ID:8HExc5lho

そんな夏を過ごした私のこの夏のマイブームは、小さなライブハウスで行われるライブだった。

別段、上手な演奏をする人が出てくるわけでもない。

むしろみんな似たり寄ったり。

でも、洗練されていない音楽を聴く、というのも勉強になるもの。

それにあの隠れ家みたいな雰囲気が、私は好きだった。

毎日通えるほどのお金と暇は、あいにく持ち合わせてなかった。
それでも、そこにはなるべく足を運ぶようにしていた。

それだけ、その場所を気に入っていたの。


5: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:03:35.40 ID:8HExc5lho

街から少し外れた路地に入った。
その細かく入り組んだ路地を抜けると、小さな雑居ビルが建っている。

その地下にあるのが、その隠れ家だ。

階段を下りていくと、たばこの匂いが漂ってくる。

入り口付近の喫煙所が、おそらくその元だ。

まぁ、この匂いも嫌いというほどではないのだけど。

でも、喉のことを考えると、中に入るまではマスクくらいした方がいいかもしれないわね。

入口の前に立って一つ深呼吸をする。

通常営業中でない時のこういう場所は入りづらいものなの。
わかるでしょう?


6: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:04:20.53 ID:8HExc5lho

わずかに開いていたドアを全開にすると、
ちょっと強面の男性が音楽雑誌をカウンターいっぱいに広げていた。

その脇の灰皿には吸い殻がたくさん。
道理で煙くさいわけね。
その匂いの強さに若干顔をしかめながら言う。


「土曜日のチケット、一枚ください」

「一枚?」


怪訝そうな顔をされた。
たしかに、私のような女子高生が、このようなところに出入りするのはおかしいかもしれない。
それも一人で。


7: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:05:00.15 ID:8HExc5lho

しかし、この場所には何度も一人で来ているのだ。
今更そんな顔をすることもないじゃないか。
軽く憤りを覚える。
そんな私の心境を知ってか知らずか、その受付は説明を始めた。


「この日、夜遅くまでかかりそうなんですよね。
あんまり遅いと、最近うるさいんすよ。
大人の方と同伴なら、たぶん大丈夫なんですけど」


私は、間髪入れずに言う。


「わかりました。それじゃあ二枚ください」


もちろん、完全なでまかせ。
別にその日、どうしても見たいバンドとかがあったわけでもない。
ただ、よくわからない決まりのせいで、ここに来れなくなること。
なんとなく、それは嫌だった。


8: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:06:00.43 ID:8HExc5lho

「はい、二枚ね。五千円になります」


引き出しから薄っぺらい横長のチケットを取り出して、
たった二枚のチケットの枚数をのろのろ確認する。

たまらずに、五千円札をカウンターに無造作に置いてやった。


「はいちょうど。ありがとうございました」


軽く頭だけ下げ、差し出されたチケットを素っ気なく受け取る。
踵を返して、開けっ放しのドアの向こうへと急ぐと後ろから声が聞こえた。


「ご来場、お待ちしております」


私は、聞こえないふりをして丁寧に扉を閉めた。


9: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:06:53.29 ID:8HExc5lho

そういえば、あの雑誌には私の記事が載っていたのだっけ。
もっとも、とても小さな記事だったのだけれど。
そう思うと、悪い気はしないものね。

チケットをバッグの中にしまいこむ。
それにしても、誰を誘えばいいのかしら。

親など、当然論外。

おそらく、高校生でなければいいのだろう。
となると、事務所の中だと六人に絞られてくる。

そんなことを考えながら地上への階段を上っていくと、先ほど感じた雨の匂いを強く感じた。

空はとっくに雨雲で覆い尽くされていた。
振りだすのも時間の問題ね。

かなり強くなりそう。
折り畳み傘なんて用をなさないに決まってる。

夏の匂いなんて、雨に打たれない場所にいるからこそ楽しめるものなのに。


10: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:07:40.85 ID:8HExc5lho

きっとあの緩慢な動きをする受付のせいね。

ドアの向こうでタバコをふかしているであろう男に、心の中で悪態をついた。

でも、全力で走れば、なんとか間に合うかも。

チケットの入ったバッグを、
できるだけ濡らさないように抱え込むと、私は一気に駆け出した。

結果だけ言わせてもらうと、びしょ濡れ。
私は、家までのあいだにぬるい雨にこっぴどくやられてしまった。
それでも、バッグの中は死守したわ。

それに、最初に言ったでしょう?
濡れるのも悪くない、ってね。

もっとも、身をもって実感することになるとは、思ってもみなかったのだけど。


11: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:15:37.21 ID:8HExc5lho

―――――

その次の日、私は閑散とした事務所のソファーの上で作戦を練っていた。
誰を誘えばよいか、いまいち見当がつかない。

誰彼かまわず誘う、というのは性に合わないわね。

それに断られた時のことを考えたら気が重い。

まあ、それで傷ついたりするわけでは、決してないのだけど。

……本当よ?


12: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:17:52.15 ID:8HExc5lho

候補の六人の顔を思い浮かべる。
みんな頼み込めば来てくれそうな人ばかりだ。

まずは社長。
あの人のことだから、何を言わずとも勝手に楽しんでそう。
でも、パスね。
普段それほど話さない人を連れ出すのはさすがに抵抗があるわ。
それに一応、偉い人だし。

次にプロデューサー。

……パス。

あずささん。
いいかもしれないわ。
あっさり引き受けてくれそう。
でも、やっぱりパス。
気付かないうちにどこか行かれてしまったら、責任なんて取れそうにないもの。


13: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:19:19.78 ID:8HExc5lho

四条さん。
あんな空の見えないような閉鎖的なところは嫌がるかしら。
俗っぽい、とか思われそうだし。
でもとりあえず保留、かしら。

律子。
うん、一番手。
でも、うちの事務所で一番忙しそうな人に、
こんなことを頼むのは少し抵抗があるわ。
ことあるごとに甘えるわけにもいかないしね。
とりあえず、保留。

それにしても、まだ頼んでもいないのに、
"保留"だなんてずいぶん上から目線なのね。

そのことに気付いて、思わず苦笑いを浮かべてしまった。


14: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:21:00.38 ID:8HExc5lho

「何かいいことでもあったの、千早ちゃん」


顔を上げると、古ぼけたテーブルの上には、比較的新しいポットと湯呑みが置かれていた。
他に新しくすべきところはいくらでもあるのに。
どうせ社長あたりの気まぐれね、きっと。
悪戯っぽく笑っている音無さんに返事をする。


「いえ、そういうわけでは」

「そう? それにしてはずいぶん熱心に考え込んでたみたいだけど」

「……見てたんですか?」

「ええ。面白くてつい、ね」


そう言い残して、音無さんは向かいのソファーに座った。
私の声が何となく上ずっていたのは、言わなくてもわかってもらえるわよね。


15: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:22:42.33 ID:8HExc5lho

「はい、お茶どうぞ」

「ありがとうございます」


なるべく平静を装う。

音無さんか。

ソファーにもたれかかって出されたお茶をすする。

……ありね。
多少の遠慮が必要になるかもしれないけど、この中で一番無難そう。

目の前のその人はというと、のんきにテレビのリモコンに手を伸ばしていた。


16: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:23:37.63 ID:8HExc5lho

問題はどのタイミングで声をかければいいか。

人を誘う、というのは何度しても慣れないもの。

今からチケットの返金ってできないのよね。
昨日、考えなしにそれを買った自分を恨んだ。
いっそのこと、五千円をどぶに捨てたことにしようかしら。

そこからの十数分はひどく長かった。
音無さんが早く席から立てば諦めもつくのに。
目の前のお茶は、もう湯気を上げることもなくなっていた。


17: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:25:43.22 ID:8HExc5lho

「千早ちゃん、レッスンは?」


先に沈黙を破ったのは音無さんだった。
慌てて返事をする。


「今日の分は、終わらせてきました」

「そう。じゃあさしずめ春香ちゃん待ち、ってところかしら」

「――違います。用があるのは音無さんです」


音無さんの顔はみるみる無表情になる。
人間本当に驚くと無表情になるみたい。
だって私もそうだったのだから。


18: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:26:51.28 ID:8HExc5lho

「私に用?」

「はい。
今度の土曜にあるライブに行きたかったんですけど、年齢的に問題があるみたいで。
大したものじゃないんですけど、一緒に行ってもらえないでしょうか。
チケット代はこっちで持ちますので」


不思議なもので、あれだけ出てこなかった言葉がするする出てくる。
きっかけなんて、だいたいは些細なものよね。


「もちろん、ダメならいいですけど。
考えていただけると、うれしいです」


付け加えるように言って残りのお茶を一気に飲み干した。


19: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:28:01.94 ID:8HExc5lho

「いいわよ。場所はどこ?」


即決だった。
表情にはいつもの笑顔が戻っている。
場所を告げると、その顔が一瞬だけ揺れた気がしたのは気のせいかしら。


「じゃあ、その日は千早ちゃんとデートね」

「デートなんて、たいそうなものじゃありません」

「そう? まぁ、その日は空けとくわ。お昼どうしましょうか」


いつの間にか、そこまで話が進んでいた。
こうなればもう音無さんの独壇場だ。

こういう時はとりあえず、黙って首を縦に振ることにしている。
それが私の数少ない処世術の一つだった。


20: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:28:33.40 ID:8HExc5lho

「じゃあ、土曜の十時に千早ちゃんの家の前まで行くわね」

「わかりました。よろしくお願いします」


どれだけ首を縦に振ったのかしら。
結局、一日中付き合わされる羽目になったみたい。
まぁチケットが無駄にならなかったことを考えると、安いものだけど。


21: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:29:21.44 ID:8HExc5lho

「じゃあ、はいチケット代。お茶片付けて来るわね」

ようやく話が終わる。
テーブルの上には、千円札三枚が突き出されていた。


「そんな、悪いです」


しかも五百円多い。


「お釣りはいらないわ。その代わり、食事も割り勘ね」


笑顔は相変わらず張り付いたまま。
だけど、少し強めの口調だったので、私はそれを黙って受け取るほかなかった。


24: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:44:28.63 ID:8HExc5lho

―――――


「へぇ、そんなことがあったんだ」


一歩先を行く春香が、こちらを振り向いて笑った。
結局あの後、外から戻った春香と一緒に帰ることになったのだ。

私を待っててくれたんだね!
なんて目を輝かせていたので、お決まりの首肯をした。

本当は違うのだけど、それに水を差すようなまねは、さすがにできなかった。


25: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:45:47.92 ID:8HExc5lho

「そうそう、今度の日曜どうする?」

「どうする、って?」


春香の質問に首をかしげて言った。


「千早ちゃん、携帯みてないの?」

「ごめんなさい、いまいち合わなくて。必要なのはわかってるんだけど」


機械が苦手な私にとって、
二つ折りの古めの携帯であっても、
使いこなしたり、頻繁に利用したりするには少しハードルが高かった。


「じゃあ、しょうがないね」


春香がとりなすように言った。


26: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:46:25.27 ID:8HExc5lho

「それで、日曜になにがあるの?」

「小鳥さんの誕生日パーティ。サプライズだよ、サプライズ!
プレゼント、何にしようかなぁ」


全く知らなかった。
浮いたチケット代だけでも、プレゼント代にまわさなくては。
それでお礼も多少は兼ねられるわね。


「千早ちゃんも、来れるよね?」


春香は手帳を取り出していた。
全員の出欠でもとっているのだろう。


27: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:47:43.57 ID:8HExc5lho

「ええ、その日に予定もないし、参加させてもらうわ」

「よかった~。きっと小鳥さんも喜ぶよぉ」


嬉しそうに春香が言う。

それを聞いて、私はうなずきながら尋ねた。


「ちなみに、本人の予定は?」

「その日、事務所に来れるって!」

「……それはもうばれてるんじゃない?」

「大丈夫、だよ。気付いてないみたいだし」


途端に歯切れが悪くなった。
ついでに言うと視線も泳いでいる。
本当に大丈夫なのかしら。


28: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:49:00.98 ID:8HExc5lho

「じゃあ、ここで。また明日ね、千早ちゃん」

「ええ、また明日」


春香は体をひねりながら歩いて、私が見えなくなるまで手を振っていた。
そして案の定転んだ。

嬉しくといえば嬉しいのだけれど、さすがに少し照れくさいわね。
それをずっと見て、たびたび手を上げる私も私なのだけれど。

さて、プレゼントはどうしようかしら。
こういうのを考えるのも、たまにはいいものね。

いくら私でも、これくらいの礼儀はさすがに持ち合わせてるのよ。


29: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:58:17.34 ID:8HExc5lho

―――――

土曜日は秋らしい天気だった。
ぐずついた灰色の空。
今にも雨が降り出しそう。

そもそも、なぜ音無さんがうちの場所を知っているのかしら。

履歴書でも見れば、と言われればそれまで。
でも、ちょっとした疑問としては十分なもの。

だからと言って解決するほどのものでもないのだけどね。

すべての疑問を解決してしまうなんて面白くないもの。

ロビーを抜けて外へ出ると、
すでに音無さんが所在無げに立っていた。


30: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 22:59:04.13 ID:8HExc5lho

「すみません、お待たせしてしまったようで」

「いいえ、今来たところだし」


私がそこまで言うと、音無さんは勝手に笑みをこぼした。
不思議に思って尋ねる。


「あの、なにかおかしいところありましたか?」

「いや、普通にデートみたいだなぁって」

「バカ言わないでください」

「じゃあ、手でもつなぐ?」


会話が微妙にかみ合っていないが、ひとまず目で断る。
この人は、たまにこういうところがあるから困ったものね。
そういうところが嫌だとか、決してそういうわけではないのだけど。


31: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:00:05.85 ID:8HExc5lho

「それで、こんなに早くから、どこに行くんですか?」

「あれ? 言ってなかった?」


気が付くと、近くでタクシーがドアをあけっぱなしにしている。
ここまで、あれで来たのかしら。
意外と羽振りがいいのね。


「美容院よ、美容院」


軽く鼻を鳴らして音無さんが言った。
しかし、それほど髪が伸びているようにも見えない。
どこか浮かれた口調で音無さんがまた言う。


「美容師ってだけでイケメンと触れ合えるのよ。得だと思わない?」

「はあ、それで私はどこで待てばいいんでしょうか」


音無さんは呆れたような顔をして、私に意外な言葉を告げた。


「何言ってるの。千早ちゃんもいくのよ」


思わず、悲鳴に似た声を発してしまった。


32: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:00:40.67 ID:8HExc5lho

要領を得ないまま連れて行かれた美容院では、
前髪を整えてもらうだけにしてもらった。

担当の女美容師はきれいな髪ですね、としきりに繰り返した。

そう何度も言われてしまうと、こちらも返答に困ってしまう。

でも、髪を褒められて悪い気はしないわね。


33: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:01:32.18 ID:8HExc5lho

音無さんを待ちながら、渡されたファッション誌を眺める。
ふと、そういうものに対する無頓着さを指摘されたことが脳裏をよぎった。

――あんな人の指摘、何にもならないに決まってる。

そう思って、一瞬でかき消してやった。
にしても、音無さんはまだかしら。

顔をあげると、さっきの美容師と目が合う。
美容師は、営業用の笑顔を崩さずに軽い会釈をした。

さすがプロね。

当の音無さんはというと、ふぬけた顔で会計へと通されていた。


34: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:02:47.13 ID:8HExc5lho

「ありがとうございました」


雲の隙間からは太陽が顔をのぞかせている。
後ろでは、粒のそろった白い歯としっかりとした笑顔を見せているに違いない。


「ね、よかったでしょ」


そう言う音無さんの髪型は、先ほどと大して変わったようには見えなかった。


「前髪を整えただけなので」

「そう。でも美容院に行くって聞いた時の千早ちゃんの顔、なかなか面白かったわよ?」

「事前に知らされていなければ、当然です」

「……言ったはずだけど」


適当な相槌をしている間にそんな話があったなんて。

あの時の自分を問い詰めたくて仕方なくなった。


35: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:04:39.26 ID:8HExc5lho

「まぁいいけど。それより、お腹空かない?」


どうやら不問にしてもらえるみたい。
ここは言うとおりにしておこう。


「はい、とても」

「うん。それでよろしい」


音無さんは見透かしたように笑った。
もしかすると、ここまでのことは、すべて想定済みなのかもしれない。

となると、ここから先も思惑通りなのかも。
つい溜息をつきたくなってしまう。


「どうしたの千早ちゃん、こっちよ」


気が付くとT字路の真ん中で置き去りにされていた。
もう狂いっぱなしね。今日は厄日に違いないわ。
私はあわてて音無さんの方へと駆けて行った。


36: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:09:44.81 ID:8HExc5lho

連れられてきたレストランは静かな場所だった。
それも個室。
これなら突然サインや握手を求められたりすることもなさそう。
そこまで顔が売れている、というわけでもないのだけど一応、ね。


「いつもあそこに通っているんですか?」


かねてよりの疑問をぶつける。
事務所の外での音無さんがどのような生活をしているか気になったからだ。


「いいえ、初めてよ」


カルボナーラを器用にフォークに巻きつけながら音無さんが言った。


37: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:11:51.84 ID:8HExc5lho

――なるほど。道連れにしようとしたわけですね。

出かかった言葉を飲み込む。
口は災いの元、というのは先ほど学んだばかりだ。

続けて音無さんが言う。


「私からも質問いい?」

「ええ、どうぞ」

「なんで私を誘ったの?」

――そこにいたからです。

言えるわけがない。
そこまで出かかった言葉を再び飲み込む。

いや、音無さんのことだ。
すべてお見通しに違いない。

しかし、その顔はというと、期待に満ち溢れていた。

体温が下がるような、そんな感覚に襲われる。


38: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:13:41.83 ID:8HExc5lho

「どうしたの? 千早ちゃん」


待ちきれないように音無さんが言った。
これはもう、素直に白状するしかないのだろうか。
そうやって私が決意を固めかねていると、助け舟が出された。


「わかった。本当はプロデューサーさん、誘いたかったんでしょ?」


音無さんは少し残念そうな笑顔を見せていた。
でも、それに肯定の返事をするのが一番得策みたいね。
本意ではないけど、この場を切り抜けるためなら仕方ないわ。


「すみません。そうなんです」


先ほどの美容師のような営業用の笑顔を浮かべる。
アイドル活動を通して身に着けた、数少ないテクニックだった。


39: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:16:36.47 ID:8HExc5lho

「嘘ね」


短い言葉で、そのテクニックはあっさり打ち砕かれた。

私と対照的に、音無さんの笑顔は崩れないまま。

いつの間にか運び込まれていた食後のお茶をすすって、音無さんは続ける。


「ここじゃなんだし、場所を変えましょうか。この辺に喫茶店、あったわよね」


無言でうなずく。
今回は意図的ではなく、そうするより他になかったのだ。

会計を割り勘にするときも、私は何も言えなかった。


40: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:17:34.92 ID:8HExc5lho

―――――

見覚えのあるオープンカフェに席をとって、アイスコーヒーを二つ注文した。

バッグの中に入れたキャップを深くかぶると、
夏の風が余計に涼しく感じられる。

そういえばここはライブハウスの近くだ。

ということは、音無さんもその場所を知っているのだろう。

もしかするとうまく誘導されているのかもしれない。
考えてみれば、さっきだってそうだった。

そう考えたら、大人に対する不信感が更に強まりそうになった。


41: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:18:28.86 ID:8HExc5lho

「……お説教ですか」


私から口火を切る。
少しやけっぱちに言い捨てると意外そうな顔で返事をされた。


「いいえ? まさか」

「では、なぜこんなところに」

「さっきのところ、ちょっと居心地悪くて」


音無さんは申し訳なさそうに笑った。

訳が分からないまま、まくしたてる。


「じゃあ、なぜ『嘘』だなんて」

「だって千早ちゃん、プロデューサーさんとうまくいってないんでしょう?」


事実だった。
でも、それを人から告げられたら、また別。
タイミング悪く運び込まれたアイスコーヒーに、力ない視線を送った。


42: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:22:13.49 ID:8HExc5lho

「……誰から、聞いたんですか」

「んー、たぶんみんな知ってると思うわよ」


なんてことだ。
自分を笑うかすれた息が漏れる。

それほどにじみ出てしまっているのだろうか。
急に恥ずかしくなった。


「でも、別に嫌いじゃないんでしょ?」

「別に好きでもないんですけどね」


私がそう言うと、音無さんはおかしそうに笑って、ガムシロップ片手にグラスをかき混ぜていた。


43: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:24:57.87 ID:8HExc5lho

「じゃあ、どこが好きじゃないの?」

「方向性の違い、ですかね」


一番もっともらしくて、一番あいまいな表現をする。

それでもこの言葉に間違いはなかった。

アイドルらしいアイドルを育てたいプロデューサーと、ただ歌を歌いたいだけの私。

意見が食い違うのも当然だった。


44: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:26:09.70 ID:8HExc5lho

音無さんが短く言う。


「そう」

「それだけ、ですか」

「私が何か言って、その方向性が合致するの?」

「……無理ですね」

「ね、そうでしょ」


二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
一息つくと、音無さんはアイスコーヒーに口をつけた。

それを見て、私も放置していた自分のグラスに口をつける。

しかし、思わぬ苦さに顔をしかめてしまった。


45: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:27:17.74 ID:8HExc5lho

「はいこれ、入れ忘れてたでしょ」


目の前にはガムシロップとミルクが差し出されていた。


「ありがとうございます」


ふたつの小さなカップを片手にして、私は雑にグラスをかき混ぜた。


46: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:28:05.60 ID:8HExc5lho

それから午後中の時間をつぶすのは割と大変だった。

外にいると、
なかなか音楽を聴いたり、
本を読んだりすることもできない。

私たちは時間をどうにかつぶすために、
コーヒーのおかわりとケーキを注文した。

それまででわかったことといえば、
音無さんが今日の事務仕事を社長とプロデューサーに押し付けてきた、ということくらいだろうか。

しかも律子のお目つきらしい。

これで安心ね、と笑った音無さんの眼は妖しく光っていた。

この眼を男の人に向けられたら、きっと一撃なのに。


47: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:29:28.30 ID:8HExc5lho

「それにしても、時間ってつぶれないものよね」


退屈そうに音無さんが言った。


「場所を変えましょうか?」

「それも面倒ね。今日は結構動いたし」

「そうですね。美容院であれだけにやつけば、疲れますよね」

「……私、そんなににやついてた?」

「ええ、見たことないくらいには」


そっかぁ、と言って音無さんは天を仰いだ。
これくらいの仕返し、許されるわよね?


48: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:30:04.33 ID:8HExc5lho

「あの美容院、また通うんですか?」

「いいえ。だって千早ちゃんの言うとおり疲れちゃったもの」


音無さんは水増しされた一杯目のグラスの中身を一気に飲み干して、また言った。


「ケーキ、来ないわね」

「その方が、時間はつぶせるかと」

「そうね」


気まずくはないけど、会話が続かない。
まさにその状態だった。


49: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:30:40.76 ID:8HExc5lho

仕方なく、土曜午後のカフェで周りを見渡す。

若いカップル、一人で本を読む男性。
馬鹿騒ぎしながら通り過ぎていく高校生。
そして、子供連れの家族。


「まさかここにアイドルがいるだなんて、誰も思いませんよね」


キャップを深くかぶり直し、
ギリギリ聞こえるくらいの小さな声で言う。

音無さんはしっかりうなずいたようだったけど、
うつむいてしまった私には、その気配を察することしかできなかった。


50: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:32:26.47 ID:8HExc5lho

何回目の注文だったのだろう。

軽食のサンドイッチが届けられるや否や音無さんは言った。


「開演そろそろでしょ? これ食べたら行きましょう」

「そうですね。
開場時間までに間に合わせなくても、どうせ空いてるでしょうし」


もっとも開演時間ちょうどに始まることなんて、なかなかないのだけど。


「じゃあ私これもらうわね」


そう言って四つのうちの一つを手に取った。
こうしてはしゃいでる目の前の人は、明日いくつになるのだろう。

いや、詮索するだけ野暮かしら。
とりあえず、明日の話はしないようにしておこう。


58: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:40:41.35 ID:8HExc5lho

―――――

「ごちそうになっちゃって、よかったんですか?」

「いいのよ。いざとなれば社長に請求できるんだもの」

「……本気、ですか?」

「さてね。えーっとこっちだったっけ」


私の質問を華麗に受け流して、音無さんはするすると路地に入っていった。
きっと、得意のパソコンで調べたのだろう。

そうでもなきゃ、こんな複雑な道、わかりっこないもの。


私の知らない道を使って、音無さんはどんどん先に行く。

あっという間に、ビルの前だ。
地下に下りる階段のわきにはネオンが光っていた。
やっぱり、ここはこうでなくちゃね。


52: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:35:00.19 ID:8HExc5lho

暗くて、煙くさい階段を下りて、受付でドリンク代を払って中に入る。
すると後ろから、音無さんがあの受付と何か話している声が聞こえた。

何かまずいことでもあったのだろうか。

そんな心配をよそに、音無さんはミネラルウォーターを片手にやって来た。

フロアでは、聞いたことのあるようなタイトルもわからない洋楽が流れている。
やはり、時間通りには始まっていないらしい。

でも、そのBGMを聞くだけでもここに来た価値があると思えた。
だって自分の部屋で聞くよりもよっぽど迫力あるもの。


「一番奥で見るの?」

「はい、前の方なんて音が悪いだけです」


最前列にいた客から軽く睨まれる。
それにかまうことなく、壁にもたれて缶のふたを開けると照明が落ちた。

どうやら開演のようだ。


53: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:36:34.30 ID:8HExc5lho

それからの二時間半くらいは、なかなか有意義だった。

重低音に揺さぶられるのは、いいものだと思う。
音に合わせて指先でリズムを取るだけでも充分気持ちいい。

ここに来るたび、耳を悪くしないかと心配になるけど、
それをいちいち忘れさせるくらいには、楽しくなるのだった。

演奏者が入れ替わるたびに、私たちは彼らの批評をした。

かなり勝手なものだったと思うけど、
音楽の論評なんてだいたいそんなものよね。

全ての演奏が終わるころになると、音無さんは物販に並びに行った。
気に入ったミュージシャンでもいたのだろうか。

初めはただ、この場所に来られればいいと思って、声をかけただけだった。
これがいい出会いになったのなら、私もうれしい。


54: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:37:42.85 ID:8HExc5lho

「一番後ろで見るのもたまにはいいわね」


戻ってきた音無さんが言った。


「音だけじゃなくて、全体も見れますしね」

「そうね。やっぱり、相手が何であれ、いい距離を見つけるのって大切だもの。
今日みたいにうまく距離をとるのは難しいけど、ね」


56: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:39:43.61 ID:8HExc5lho

ステージの上では、スタッフたちがせわしなく動いて、後片付けをしていた。
その様子を見つめながら、言う。


「そうですね。難しいものです」

「ええ。だけど、ここではできてたんじゃない?
いい距離をとれれば、たぶん人生なんてイージーモードよ」

「……ちなみに音無さんは、イージーモードなんですか?」

「そうね……。ベリーハードよりのハードってとこかしら」


音無さんは小さく舌を出して笑った。
そう言う割に楽しそうにしている姿が、少しうらやましく思えてくる。


59: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:41:26.89 ID:8HExc5lho

「そうそう、そんなことより――」


音無さんが場を仕切りなおすように言う。


「これにサイン書いてくれない? あの受付の人、千早ちゃんのファンなんだって」


いつの間にか色紙とペンが取り出されていた。

出口の向こうを見る。
一瞬だけ、受付と目が合った。


「なんなら、ここで歌ってもいいらしいわよ。営業成功ね」


音無さんが、恥ずかしそうに目をそらしている受付を見て笑う。
その間に、私はひとまず色紙の上でペンを走らせた。


60: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:42:05.97 ID:8HExc5lho

「じゃあ、またね」

「ありがとうございました」


受付が無愛想に音無さんに言った。

また来ますね、と私が言うと受付は照れくさそうに笑った。

あの美容師たちみたいに、
整った笑顔ではなかったけど、彼らより数倍素敵な笑顔。

また来よう、そう思った。


61: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:42:39.13 ID:8HExc5lho

「やっぱり若い子がいいのね」


音無さんはどこか落胆したような声を出した。


「お知り合いなんですか?」

「ええ」

「そうですか」

「……それ以上聞かないの?」

「教えてくれるんですか?」

「いいえ」


音無さんがはずむように言う。
さっきより暗くなった階段をのぼりながら二人で笑った。


62: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:46:04.22 ID:8HExc5lho

「で、どこいくんですか?」


階段の入り口のわきで、音無さんに尋ねる。


「そうねぇ……。そういえば、晩御飯まだだったわよね。
近くにいい店があるの。ごちそうしてあげる」


そう言うと、音無さんは再び路地の入り口に足をかけた。
すかさず呼び止める。


「だけど、少し遅くないですか?」

「そう? でも、まだ帰りたくないって顔してるわよ?」


振り向いて音無さんが楽しそうに言った。
確かにそうかもしれない。


肯定の返事をするために口を開こうとすると、音無さんが突然手を叩いて言った。


64: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:50:13.06 ID:8HExc5lho

「忘れてた!」

「なにを、ですか?」

「千早ちゃんがどうして私を誘ったのか、聞いてなかったわよね?」


もう白状してもいいのかもしれない。
なんとなく、そう思ってしまった。


65: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:53:29.29 ID:8HExc5lho

「あら、雨」


私が口を開く前に、弱い雨が降り出した。


「傘をさすほどでもないですね。どうしましょうか?」

「なくても、いいわよね」


しっかりとうなずいて見せる。
夏のそれとは違う、雨の匂いが私たちを包んでいた。


「それで、どうなの?」


難を逃れたかと思いきや、逃げ道はないみたいだ。


66: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:55:15.35 ID:8HExc5lho

「すぐそこにいましたし、一番適当だと思いまして」


観念して事実を告げる。
見る見るうちに音無さんの表情が落胆の色に変わった。


「……それだけ?」

「はい」

「酷くない?」

「そうですね。すみません」


申し訳なさそうな顔を作って、笑って答える。
音無さんは頬を思い切り膨らませて言った。


「わかったわ。さっきのごちそう、取り消しね。割り勘で」


朝と同じ、悲鳴のような声を再びあげてしまった。
音無さんは愉快そうに笑って、背中を向けた。


67: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/08(土) 23:58:12.63 ID:8HExc5lho

――明日のプレゼントは格下げ決定ね。

心の中でそう呟いて、薄いミストの漂う路地に、私もまた入っていった。

だから、次の日に私がどんなプレゼントを渡したかは、みんなには内緒。
実際に格下げしたか、それとも格上げしたか。
それも、もちろん内緒よ。

だって秘密は多い方がいいもの。そうでしょう?

私にそれを教えてくれたのは、いつもとはちょっと違う、そんな雨の土曜日。

あと口は災いの元、っていうのも追加で、ね。

前を行く音無さんの背中と適度な距離を取って、私は狭い道の中を歩いて行った。


68: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/09(日) 00:00:00.07 ID:8HExc5lho

おわり

音無さん誕生日おめでとうございます。あとごめんなさい
ところでいくつになったんですか





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